12万kmを旅したイスラム商人。東洋を西洋に伝えたヴェネツィア商人。アラスカの荒野に消えたアメリカの青年。放浪者を演じ続けた映画人——。時代も場所も異なる4人、彼らの人生は定住よりも、移動暮らしの上にあった。
🌍 イブン・バットゥータ(1304-1368/69年)
史上最長の旅をした男
出身: モロッコ・タンジール
旅程: 30年間、約12万km
訪問地: アフリカ、中東、インド、中国、東南アジア
著作: 『大旅行記』(通称リフラ)
1325年、21歳のイブン・バットゥータは、モロッコのタンジールを出発した。目的はメッカ巡礼だった。だが、彼は30年間、故郷に戻らなかった。
タンジールからメッカへ向かう途中、エジプトのアレクサンドリア、シリアのダマスカスを経由した。メッカに到着した後も、彼は旅を続けた。イラク、イラン、アラビア半島、コンスタンティノープル、キプチャク・ハン国の大草原、中央アジア、インドのデリー——。
インドでは、トゥグルク朝のスルタンに仕え、8年間も法官として滞在した。その後、スルタンの命で元朝への使節となり、東南アジアを経て中国の泉州、大都(北京)へ到達したと言われる。
1349年、46歳でいったんモロッコに戻ったが、さらにスペインのグラナダ王国、西アフリカのマリ帝国を訪れた。サハラ砂漠を越え、塩の建物が立ち並ぶタガーザー、マリ帝国の首都を訪問した。
驚異の記録
- 旅行距離: 約12万km(地球3周分)
- 訪問国: 44の異なる地域・国
- 出会った君主: 60人以上のスルタンや王
- 期間: 30年間(1325-1354年)
- 手段: 徒歩、馬、ラクダ、船
帰国後、マリーン朝の君主の命で、イブン・ジュザイーに口述した記録が『大旅行記』(通称リフラ)として残された。
この旅行記は、14世紀のイスラーム世界を知る最大の史料と言われる。当時の交易ルート、各地の風習、政治情勢が克明に記録されている。ただし、中国など一部の地域については、実際には訪れていないという考証もある。
興味深いのは、何度も盗賊に襲われ、無一文になっても旅を続けられたことだ。これは、旅人を受け入れるイスラームの精神があったためと言われる。見知らぬ土地で、スーフィーの導師に出会い、宿と食事を提供され、また旅立つ——そうした繰り返しだった。
🐎 マルコ・ポーロ(1254-1324年)
東洋を西洋に伝えた冒険商人
出身: ヴェネツィア共和国
旅程: 24年間、約15,000km
訪問地: 中東、中央アジア、中国(元朝)
著作: 『東方見聞録』(原題『世界の記述』)
1271年、17歳のマルコ・ポーロは、父ニッコロと叔父マテオと共に、ヴェネツィアを出発した。目的地は、フビライ・ハンが支配する元朝の大都(北京)だった。
コンスタンティノープル(現イスタンブール)を経て、ペルシャを抜け、中国のカシュガル、ホータン、敦煌を通過し、1275年に北京に到着した。ユーラシア大陸を横断する大旅行だった。
フビライ・ハンは、マルコを大変気に入った。理由は、彼の報告の仕方だった。他の使者が簡潔な報告しかしないのに対し、マルコは現地の風習や興味深い出来事を詳細に、面白おかしく語った。これが、後の『東方見聞録』の原型となった。
マルコは、帝国の重要な使者として様々な任務を与えられた。中国国内はもちろん、東南アジアやインドにまで派遣され、各地の政治情勢や経済状況を調査した。雲南省やミャンマー地域への派遣では、ヨーロッパでは見たことのない珍しい動物や植物、独特な文化に触れた。
1295年、24年ぶりにヴェネツィアに帰還した。だが、ジェノヴァとの戦争に従軍し、捕虜となって投獄されてしまう。この獄中で、作家ルスティケロ・ダ・ピサに旅の話を語り聞かせた。ルスティケロがこれを古フランス語で記録したものが、『東方見聞録』となった。
「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で、莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできている」——『東方見聞録』より
マルコ・ポーロは日本を訪れていないが、「黄金の国ジパング」として西洋に紹介した。この記述が、後のコロンブスの大航海の動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』には、彼の手書き注釈が残っている。
『東方見聞録』には疑問も多い。万里の長城の記述がない、纏足の話がない、中国茶の記述がない——実際には中国へ行っていなかったのではないかという説もある。だが、紙幣、石炭、陶磁器の製造工程など、当時のヨーロッパ人が知らなかった事物を詳細に記録している。
🏔️ クリス・マッカンドレス(1968-1992年)
アラスカの荒野に消えた青年
出身: アメリカ・ヴァージニア州
旅程: 2年間(1990-1992年)
訪問地: アメリカ西部、メキシコ、アラスカ
別名: アレグザンダー・スーパートランプ
1990年夏、エモリー大学を優秀な成績で卒業した22歳のクリス・マッカンドレスは、2万4千ドルの貯金を全額慈善団体に寄付し、身分証を破棄し、現金を燃やした。そして、中古車を路上に走らせた。
アリゾナ州で鉄砲水に見舞われて車を破棄。「アレグザンダー・スーパートランプ」という別名で、ヒッチハイクの旅を続けた。北カリフォルニアでヒッピー夫婦と出会い、穀物倉庫で働き、川を許可書なしにボートで下ってメキシコに行った。
旅の途中、様々な人と出会った。ロン・フランツという老人は、身寄りがなく、革を彫る仕事をして一人で暮らしていた。クリスはロンの仕事を手伝い、共に時間を過ごした。アラスカに行くというクリスに、ロンは自分の養子にならないかと言った。クリスは、アラスカから帰ってきたら話をする、と答えた。
1992年4月、クリスはアラスカ州へ向かった。デナリ国立公園近くの荒野に、廃棄されたバスを見つけ、そこをキャンプ地とした。彼はこれを「マジック・バス」と呼んだ。
「北へ行くんだ。ひたすら北へ向かう。僕一人だけの力で。時計も地図も斧もなし。何にも頼りたくない。真っただ中で生きるんだ。そびえる山、川、空、猟獣。荒野のど真ん中で。」
クリスは、ソロー『森の生活』やジャック・ロンドン『野生の叫び』に影響を受けていた。物質主義を拒否し、自然の中で自分の力だけで生きることを望んだ。
だが、4ヶ月後、生活は厳しくなった。大きなヘラジカを狩ったが、肉を保存できず腐らせてしまった。自然は思っていたよりも過酷だった。クリスは、真の幸福は他者と分かち合うことでしか見いだせないことに気づき、荒野から戻ろうとした。
しかし、冬に渡った小川は、雪解けで幅広く、深く、激しい流れになっていた。渡ることができなかった。
食料が尽き、クリスは根や植物を採取した。だが、似た植物を間違え、毒のあるものを食べてしまった。1992年8月18日、24歳で亡くなった。バスの中には、彼の日記と、「幸福は、分かち合うときだけリアルになる」という最後のメッセージが残されていた。
2週間後、ヘラジカのハンターによって遺体が発見された。ジャーナリストのジョン・クラカワーが追跡取材を重ね、1996年に『荒野へ』(Into the Wild)を出版。2007年、ショーン・ペン監督により映画化され、世界中で反響を呼んだ。
🎬 チャーリー・チャップリン(1889-1977年)
放浪者を演じ続けた映画人、チャーリー・チャップリン。彼の代表作『モダン・タイムス』『街の灯』『黄金狂時代』では、ステッキと山高帽、ちょび髭の放浪紳士が登場する。
チャップリン自身も、幼少期にロンドンのスラム街を放浪した経験を持つ。母の精神疾患、父のアルコール依存症——貧困と孤独の中で育った。その経験が、彼の映画に深みを与えた。
チャップリンが演じた放浪者は、社会の底辺にいながらも、尊厳と優しさを失わない。権力に媚びず、弱者に寄り添う。「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」——彼の言葉は、放浪者の哲学そのものだった。
なぜ人は放浪するのか
4人の放浪者の共通点。
定住を拒んだこと。イブン・バットゥータは30年間、マルコ・ポーロは24年間、故郷に戻らなかった。クリスは故郷を捨て、アラスカの荒野へ向かった。
次に、記録を残したこと。イブン・バットゥータは『大旅行記』、マルコ・ポーロは『東方見聞録』、クリスは日記、チャップリンは映画——彼らは旅の記憶を、何らかの形で後世に伝えた。
そして、境界を超えたこだ。国境、文化、言語——様々な境界を越え、異なる世界を見た。イブン・バットゥータはイスラーム世界の境域へ、マルコ・ポーロは東洋へ、クリスは文明から荒野へ。
だが、最も重要なのは、彼らが何かから逃げていたのではなく、何かを求めていたということかもしれない。
イブン・バットゥータは「驚異」を求めた。マルコ・ポーロは「富」と「知識」を求めた。クリスは「真実」を求めた。
彼らが長い旅を終える時、きっかけとなったものはあったのだろうか、何を見つけたのか。
イブン・バットゥータは、イスラーム世界の広大さを見た。マルコ・ポーロは、東洋の豊かさを見た。クリスは、「幸福は分かち合うときだけリアルになる」という真理に辿り着いた。
放浪は、孤独であり、肯定である。
🏡 あなたの「旅」はここから始まる
放浪か定住か。その境界は、案外曖昧なのかもしれません。新しい土地で、新しい生活を
—— 小さな旅の始まり
📖 もっと深く知るための4冊
家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』(平凡社ライブラリー)
マルコ・ポーロ、月村辰雄・久保田勝一訳『東方見聞録』(岩波文庫)
ジョン・クラカワー『荒野へ』(集英社文庫)
チャールズ・チャップリン『チャップリン自伝』(新潮文庫)
📚 あわせて読みたい


参考文献
・「イブン・バットゥータ」Wikipedia, 2025
・家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社ライブラリー, 2022
・「マルコ・ポーロ」Wikipedia, 2025
・「東方見聞録」Wikipedia, 2025
・「イントゥ・ザ・ワイルド」Wikipedia, 2024
・ジョン・クラカワー『荒野へ』集英社文庫, 2007

