人口1位が東京ではなかった時代
広島・新潟・石川が栄えた明治
📊 1872年:広島県92万人が日本一
明治5年(1872年)人口ランキング
- 1位 広島県 91万9,047人
- 2位 山口県 82万7,536人
- 3位 東京府 77万9,361人
※全国人口:約3,311万人(現在の約4分の1)
廃藩置県が行われた後、最初の本格的な人口統計が実施されたとき、人口1位は広島県だった。江戸時代から行政首都だった東京が3位というのは、意外に思えるかもしれない。
なぜ広島が1位だったのか
広島藩は干拓事業などの積極的な開発を行い、瀬戸内海の海運から商品経済が発達していた。広島城下は江戸・大阪・京都・名古屋・金沢に次ぐ全国屈指の都市として君臨していた。
江戸時代を通じて、広島周辺では綿花・い草・藍などの商品作物の栽培が盛んだった。特に干拓地で育てられた「安芸木綿」は広島藩有数の特産品となり、近畿地方で消費される綿や日用品、食品の一大生産基地として繁栄した。
興味深いのは、この地域に浄土真宗の信仰が強かったことだ。「安芸門徒」と呼ばれた信者たちは、堕胎や間引きを禁止していたため、人口増加に寄与したと見られている。1721年を100とすると、1872年には185にまで増加していた。
江戸時代、江戸は100万都市だったはず——そう思う人もいるだろう。だが明治維新後、徳川家の関係者、参勤交代で滞在していた全国の大名家と奉公人、彼らを相手に商売をしていた人々が一斉に各地へ散ったのだ。1871年の廃藩置県の際、藩士や奉公人の転出により、人口は激減していた。
🌾 1874-1876年:新潟県137万人の天下
明治7年(1874年)人口ランキング
- 1位 新潟県 136万8,782人
- 2位 名東県 133万5,364人(現・徳島県+淡路島+香川県)
- 3位 愛知県 121万7,521人
1874年、19世紀における一大都市が1位に躍り出る。それが新潟県だ。前年に柏崎県を合併したこともあり、人口は136万8,782人に達した。この新潟県の天下は1876年まで続く。
米と北前船が支えた繁栄
新潟県が人口1位になった理由は、稲作に適した気候と、北前船の拠点だったことだ。
江戸時代、稲作に適した気候に恵まれた日本海側は、太平洋側より豊かな傾向があったと言われている。米どころ新潟は、それだけの人を養う力があった。明治時代には日本の人口の約5%にあたる約180万人が新潟県に居住していた。
そして何より重要なのが、北前船だ。明治の途中で陸路が発達するまで、運送の主役は長らく「海運」だった。黒潮の流れに逆らって走る太平洋側のルートは、当時の船では航海が大変だった。それに対して日本海側の西廻り航路の方が簡単かつ安く運べたため、海運の主要ルートだったのだ。
北前船は大阪と北海道を結び、巨万の富を生み出す存在として、さまざまな商品を運んでいた。新潟は古くから受け継がれてきた伝統産業に加え、明治には製糸や金物業などの新たな生産拠点となり、明治時代を通して3回も人口1位を記録している。
⛰️ 1877-1881年:「大石川県」181万人の巨大県
明治10年(1877年)人口ランキング
- 1位 石川県 180万6,509人
- 2位 新潟県 150万63人
- 3位 愛媛県 139万4,091人(香川県と合併)
1877年、新潟と同じ日本海側から新たな1位が登場する。それが石川県だ。人口はグッと上がって、180万6,509人に達した。
実はこのとき、今の石川県の地域に加え、富山県と今の福井県の地域のかなりの部分を編入しており、広大な地域を誇っていた。この「大石川県」は、1881年まで5年もの間トップを守り通した。
浄土真宗と「口減らし」の少なさ
北陸地方および新潟は浄土真宗を信じる人が多かった地域だ。そのため、口減らしのためにかつて日本中の多くの農村で見られた「間引き」や身売りが非常に少なかったため、人口はどんどん増えていった。
19世紀までは経済の中心は第一次産業であったため、作物の王様である「米」を育てるのに適した環境であった日本海側が賑わった。広島の綿花、新潟の米、そして北陸の米——地方の第一次産業が日本の経済を支えていたのだ。
📉 なぜ地方は衰退したのか
金沢の衰退が象徴的
幕末期、金沢は江戸・京都・大阪・名古屋に次ぐ国内第5の都市で、人口約12万人を誇っていた。だが版籍奉還により、武士に依存していた加賀百万石の経済力は急激に衰退した。
明治8年(1875年)〜明治10年(1877年)頃に名古屋に抜かれ、明治20年(1887年)には横浜・神戸に、明治27年(1894年)には広島に抜かれ、国内第8の都市に転落。さらに明治30年(1897年)・明治31年(1898年)には仙台・長崎にも抜かれた。
人口は明治30年(1897年)には8万2,378人まで減り続けた。12万人→8万人という急激な衰退だ。「軍都」となってようやく活力を取り戻し、明治37年(1904年)に10万都市に復帰するまで、金沢は低迷が続いた。
太平洋ベルト地帯の工業化
なぜ日本海側は太平洋側に後れを取ってしまったのか。その大きな一因は都市圏への大流出だった。
米の一大単作地帯で、太平洋ベルト地帯の工業化についていけなかった北陸は、近代化の進んだ太平洋側にどんどん人口を取られていった。農家の次三男らが東京・大阪などの大都市へ流出し、工場労働者のほか、都市化に伴って増える小商人・職人・店員らになったのだ。
彼らは持ち前の粘り強さで、豆腐屋・魚河岸などの朝早くから泥臭く働く業種を得意とした。特に風呂屋は彼らによって支えられており、東京・大阪の銭湯の初代経営者は、石川・富山・新潟の3県の出身者が約8割を占めるほどだった。
さらに「北前船」も鉄道や汽船、通信技術の進歩により、より早く大量の荷物や情報が全国各地に送られるようになったため不要になり、衰退していった。日本海側は、人もいなくなり、産業も伸びず、長い低迷期に突入していくのだ。
🔮 地方は再び勃興するか
東京が不動の1位になったのは1897年
東京が人口1位の座を確立したのは、明治30年(1897年)頃からだと言われている。統計開始から約25年。それまでは、広島、新潟、石川、愛知、大阪が入れ替わり立ち替わり1位を記録していた。
つまり、東京一極集中はまだ130年程度の歴史しかないのだ。それ以前は、地方に応じた産業が活発で、地方が元気な時代があった。
可能性のある要素
では、地方都市が再び勃興する可能性はあるのだろうか。いくつかの動きは、既に始まっている。
リモートワークによる分散: コロナ禍を経て、リモートワークが一般化した。東京に住む必然性が薄れつつある人々が、地方へ移住する動きも見られている。
産業の地方回帰: 半導体工場の熊本進出など、製造業が地方に拠点を置く動きもある。かつての瀬戸内工業地域のように、地方に産業が根付く可能性はゼロではない。
観光・文化資本: 金沢は北陸新幹線の開通で再び注目を集めた。歴史的建造物や文化的蓄積は、一朝一夕には築けない地方の強みだ。
災害リスク分散: 首都直下地震や南海トラフ地震のリスクを考えれば、一極集中は脆弱性でもある。企業の本社機能の地方分散は、国家戦略としても議論されている。
人口分布は歴史的に変動してきた
ただ、ここで断定的な予測をするのは避けたい。歴史が教えてくれるのは、人口分布は固定的なものではなく、経済構造や交通インフラ、産業の変化によって大きく変動してきたということだ。
かつて北前船が主要な物流手段だった時代、日本海側は繁栄した。鉄道と工業化の時代になると、太平洋ベルト地帯が栄えた。では、リモートワーク時代、脱炭素社会、人口減少社会の未来に、どこが栄えるのか——それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ言えるのは、東京一極集中は永遠ではないということ。広島が1位だった時代、新潟が1位だった時代、石川が1位だった時代があったように、未来の日本で「意外な県」が再び栄える可能性は、ゼロではないのだ。
おわりに
人口統計はただの数字ではない。その裏側には、時代を懸命に生き抜こうとした人々の歴史がある。
広島の綿花農家。新潟の米作り農家。北前船で財を成した商人。金沢から東京へ出稼ぎに行き、銭湯を営んだ人々。彼らが築いた繁栄と、そして衰退。
だが、衰退は終わりではない。歴史は繰り返さないが、韻を踏むと言われる。150年前、地方が栄えた時代があったように、これから150年後、また違う形で地方が栄える時代が来るかもしれない。
東京一極集中という「現在」は、長い日本の歴史から見れば、ほんの一瞬の風景に過ぎないのだ。
日本人の移住史: 縄文時代の季節移動から、弥生の稲作定住、江戸の引っ越し文化、そして現代の東京一極集中まで——日本人はずっと移動し続けてきた。
→ 縄文人から現代まで|日本人の移住史好奇心遺伝子と移住: なぜ人類は旅をするのか。DRD4-7Rという「好奇心遺伝子」が、移動への衝動を説明するかもしれない。
→ 好奇心遺伝子DRD4-7R・「広島県人の移民」Wikipedia, 2025
・「広島市」Wikipedia, 2026
・「明治時代に新潟県の人口が日本一だったというのは本当か」レファレンス協同データベース
・古厩忠夫『裏日本-近代日本を問いなおす-』岩波新書, 1997
・「なぜ新潟や石川が『人口日本一』だったのか?」ねとらぼリサーチ, 2021
・「過去の都道府県の人口一覧」Wikipedia, 2025
・高木和人「明治前期の都市別人口の分析」情報知識学会誌, 2018

