「分け入っても分け入っても青い山」——種田山頭火。「ボク、絵が好きなんだな」——山下清。「願はくは花の下にて春死なむ」——西行。「月日は百代の過客にして」——松尾芭蕉。「ひとつ星など指さして門すずみ」——井上井月。日本には、定住を拒み、放浪に生きた人々がいた。彼らはなぜ旅を続けたのか。
🥾 種田山頭火(1882-1940)
行乞の俳人
「どうしようもないわたしが歩いている」
生没年: 1882年(明治15年)-1940年(昭和15年)59歳没
出身: 山口県防府市
活動: 自由律俳句、行乞放浪
山頭火の生涯は、絶望から始まった。11歳の時、母が井戸に投身自殺。実家の酒造場は倒産し、一家離散。離婚、自殺未遂——。43歳で出家得度した山頭火は、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出づ」と西日本を中心にほぼ全国を行脚した。
山頭火の俳句は、五七五の定型に縛られない自由律俳句だった。同じく『層雲』の荻原井泉水門下の尾崎放哉と並び称されるが、放哉が「静」なら、山頭火は「動」——酒と放浪の人生だった。
分け入っても分け入っても青い山
どうしようもないわたしが歩いている
鴉啼いてわたしも一人
雨の日は雨を聴く
酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支援者の援助によって生計を立てていた。だが山頭火の句は、存在者の生きざまと心の動きを見きわめようとする、弱者の眼光を放っていた。
10年以上の流転の末、死に場所として選んだのは四国・松山。1940年、庵で59年の人生を終えた。「放浪と行乞、泥酔と無頼の一生」——だが、その句は今も人々を魅了し続けている。
🎨 山下清(1922-1971)
放浪の天才画家
「日本のゴッホ」と呼ばれた貼り絵の巨匠
生没年: 1922年(大正11年)-1971年(昭和46年)49歳没
出身: 東京都浅草
活動: 貼り絵、放浪
3歳の頃、重い消化不良で命の危険に陥り、軽い言語障害と知的障害の後遺症を負った。12歳で千葉県の養護施設「八幡学園」に入園し、授業の一環だった「ちぎり絵」に出会う。
16歳の時、銀座の個展で洋画家の梅原龍三郎や安井曾太郎から「その美の激しさ、純粋さは、ゴッホやアンリ・ルソーに匹敵する」と称賛を受けた。だが18歳になると、ある日突然学園から姿を消し、その後16年間にわたって放浪を繰り返す。
学園から出て行って3年ほど経つとふらっと戻り、放浪先で見た風景や花火を貼り絵として残し、再びふらりと出ていく——その繰り返しだった。
驚異的なのは、その映像記憶力だった。清は放浪中に絵を描くことはほとんどなかった。スケッチやメモを取らずとも、旅先で見た風景を細部まで正確に記憶し、学園や自宅に戻ってから作品として描き上げたのだ。サヴァン症候群だった可能性も指摘されている。
代表作『長岡の花火』では、3ミリ程度に手でちぎった色紙を細かく貼り込み、紙を細く捻った「こより」で立体感を出した。色紙のちぎり方を工夫し、まるで印象派の絵画のようなソフトな印象を与える。
1954年、朝日新聞の捜索キャンペーンで鹿児島で発見され、放浪に終止符が打たれた。1956年の東京大丸「山下清展」には26日間で約80万人が来場。全国巡回展は約130回開かれ、観客は500万人を超えた。皇太子明仁親王も訪れた。
1971年、49歳で脳溢血により逝去。遺作となったのは『東海道五十三次』シリーズ。画業最後の作品からも、清の旅への好奇心が垣間見える。
🌸 西行(1118-1190)
遁世の歌人
「花の下にて春死なむ」と詠んだ武士で僧侶
生没年: 1118年(元永元年)-1190年(建久元年)73歳没
俗名: 佐藤義清(のりきよ)
活動: 和歌、諸国行脚
代々武家の身分であった佐藤康清の子として生まれ、若くして和歌の才を発揮した。北面の武士として鳥羽法皇に仕えたが、23歳で突如出家。その理由は明らかではない。
出家後は吉野山の麓をはじめ、陸奥や出羽、瀬戸内や讃岐など心の赴くままに諸国を行脚し、実にさまざまな地で庵を営み、和歌を詠んだ。
生涯に約2,300首の和歌を残し、『新古今集』には94首が入撰(入撰数第1位)。その歌や生き方は松尾芭蕉をはじめとする多くの文化人に影響を与えた。
願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり
西行の和歌の特徴は、花鳥風月などの風光明媚な情景を自分で感じたままを、技巧に拘ることなく素直に詠んでいることだと言われている。
高野山での居住は、度重なる出入りを繰り返しつつも30年にもわたったとされる。1190年、73歳で生涯を閉じた。願い通り、桜の季節だった。
🌙 松尾芭蕉(1644-1694)
俳諧の巨匠
「奥の細道」を歩いた俳聖
生没年: 1644年(寛永21年)-1694年(元禄7年)51歳没
出身: 伊賀上野(三重県)
活動: 俳諧、紀行文
29歳で江戸に移り、37歳で深川の庵に転居。庭に繁った芭蕉の風情を気に入って、俳号を「芭蕉」に変更した。40歳を過ぎて「蕉風」と呼ばれる俳諧世界を確立し、俳聖と呼ばれるに至る。
46歳の時、西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に、門人の河合曾良を伴って江戸を発ち、奥州、北陸道を巡った。全行程約600里(2,400キロメートル)、日数約150日間。歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也
古池や蛙飛びこむ水の音
夏草や兵どもが夢のあと
閑さや岩にしみ入る蝉の声
五月雨をあつめて早し最上川
『おくのほそ道』は、曾良の随行日記とは相違があり、芭蕉が文芸作品として執筆している。和漢混交文の格調高い文章でまとめられ、芭蕉の紀行文としては最も長編で、かつ質的にも生涯の総決算的な意義を持つ。
この旅で芭蕉は、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、「不易流行」説を形成していった。
1694年、51歳で没。最後まで旅を愛し続けた。
🍶 井上井月(1822-1887)
江戸から明治の漂白俳人
「千両千両」が口癖の乞食俳人
生没年: 1822年(文政5年)?-1887年(明治20年)66歳没
本名: 井上克三(一説)
活動: 信州伊那谷を中心に放浪
井月の出自はほとんど不明だ。越後長岡藩出身の武士とも言われるが、確定されていない。18歳で長岡を出て江戸へ向かい、芭蕉に憧れて「奥の細道」をなぞるように全国を放浪した。
1858年頃、三十代後半の壮年であった井月は信州伊那谷を訪れる。この地に、多少好学の風があり、風流風雅を嗜む傾きのある土地であったため、俳諧の師匠として井月は伊那谷の人士に歓迎された。
だが井月は、典型的な酒仙だった。当時の伊那谷は養蚕が盛んで経済的に余裕があり、人の顔さえ見れば酒を勧める悠長な土地柄だったので、ほとんど金銭を持たず蓄えも無かった井月にとって、いつでも酒食の相伴にあずかることの出来る魅力的な土地だった。
体中虱だらけで、直ぐに泥酔しては寝小便をたれるという井月を、土地の女性や子供たちは「乞食井月」と呼んで忌避したが、俳句を趣味とする富裕層の男性たちが井月を優遇した。
饗応の際に相好を崩して「千両千両」と繰り返したという逸話が、数多く言い伝えられている。謝辞、賞賛詞、賀詞、感嘆詞、挨拶——すべて「千両千両」で済ませたという。
井月は芭蕉の「侘びの俳諧の世界」を求めて、野ざらしを心に一所不在という絶対自在の境涯を自らに課して、漂泊の中に身を晒した。
1887年、伊那谷の地で66年の生涯を閉じた。約30年間、この伊那谷から出ることなく、家庭も住まい・財産も持たず、ひたすら俳諧に生きた。1,700余の句や優れた書を残している。
芥川龍之介は井月の書を「入神と称するをも妨げない」と評し、種田山頭火は「私は芭蕉や一茶のことはあまり考えない、いつも考えるは路通や井月のことである、彼等の酒好きや最後のことである」と語った。
🏺 詳しく知る:井上井月=日本のディオゲネス
紀元前4世紀のギリシャに、樽に住んだ哲学者ディオゲネスがいた。19世紀の信州に、蕎麦屋の軒先に住んだ俳人・井月がいた。2000年の時を隔て、東西で生きた二人には、驚くべき共通点があった——。

なぜ人は放浪するのか
5人の放浪者の共通点。
定住を拒んだこと。山頭火も山下清も西行も芭蕉も井月も、家を持たず、あるいは家を捨て、旅を続けた。
次に、創作し続けたこと。俳句、貼り絵、和歌——彼らは放浪しながら、世間を日常を人生の瞬間を、言葉や絵で切り取り人々と共有した。放浪は彼らにとって「日常」で、創作もまた同じ道の上だったのでは。
そして、世間からはみ出したこと。武士が出家し、知的障害を持つ少年が学園を脱走し、酒仙が虱だらけで街を歩く——彼らは、「普通」ではなかった。
だが人々は、自分と異なる者と距離を置いたり、時に嘲笑しながらも彼らを受け入れた。だから現代まで彼らの痕跡が残り、時代を超えて人々に愛されているのかもしれない。
おそらく、それは彼らは「存在者」として生きたからだ。社会の枠に収まらず、自分の存在そのものを曝け出して生きた。その生きざまが、異なる生き方をする者を時に元気付けるのかもしれない。故に生物の多様性がこの世に存在するのか?
「どうしようもないわたしが歩いている」——山頭火の句は、どうしようもない自分を抱えて、それでも歩き続ける今日のわたしの姿にも重なって見える。
🚶思い立ったが吉日 🏡
定住か放浪か。その境界は、案外曖昧なのかもしれません。
新しい土地で、新しい生活を——
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参考文献
・金子兜太『種田山頭火: 漂泊の俳人』講談社現代新書, 1974
・『山下清と昭和の美術』服部正著, 2018
・復本一郎編『井月句集』岩波文庫, 2007
・Wikipedia

